「そうしてスイスに行き、まずエルマティンガー氏と会って、緊張ながらもなんとか少し話せるようになった英語でコミュニケーションを取って、職場に入りました。ところが、英語を話せるのはエルマティンガー氏だけで、職場に入ると誰も話せないんですね、皆さんドイツ語で。僕はその時ドイツ語の辞書すら持っていっていないような状況で、最初は本当にとまどいました」
「僕の最初に働いたお店は、スイスのシャフハウゼンという街にあるんですけれど、ほんと小さな街なんですよね。城壁に囲まれた街なんですけれども、よく映画とかテレビに出てくる、ちっちゃな中世の街並がそのまま残っているような街でね、最初その街に入ったときに、『ああ、この街で本当に働くことが出来るのか』と、すごい夢のような気持ちになったのを、今でもはっきりと覚えてます」
「当時、お店は朝5時からはじまったんですけれども、だいたい2時とか3時ぐらいに仕事が終わっていました。その後みんな一度家に帰って、ライン川に集まるんですよね。ライン川のあのあたりは、本当に水がきれいなんですよね。で、仕事の後、みんなその川辺に集まって泳ぐんですね。街の若者なんかもみんなそれぞれ集まる場所というのが決まっていて、学校が終わったら一度家に帰ってみんなそこに集まって。夏は夜7時、8時でも平気で泳げるので、毎日そこで泳いでました。そんなふうに遊んでいたんですけど、職場の人とコミュニケーションを取る意味と、あと語学ですね、遊びに行く時にもいつも辞書を持っていって、わからない言葉をどんどん辞書で調べて。そのうちに少しずつドイツ語が話せるようになって、仲間とも仲良くなって。本当に最初に小さな街に行ってよかったなと思ってます」
「そうしているうちに1ヶ月たち2ヶ月たち、ある日、エルマティンガー氏から呼ばれて『3ヶ月で帰国しろ』ということを急に言われまして。なぜかというと、労働ビザがおりないと。というのも、今ヨーロッパでは外国人を雇用する許可を取る、外国人が労働ビザを取るということが本当に難しいんです。エルマティンガー氏は日本人を雇うのはもちろん初めてで、外国人を雇うことがそんなに大変なことと分かっておられなくて、当然僕も分からずに行ったものですから。エルマティンガー氏にとっては、リスクを冒してまで僕を雇いたくない、それに労働ビザも取れないから、申し訳ないけど3ヶ月で帰ってくれと。僕の方は会社も辞めて家を引き払って、送別会なんかも派手にやってもらって、意気揚々と行ったものですから、『それは困る、どうしても僕は残りたい』、むこうは『だめだ』、ということで、リミットぎりぎりまで確執がありました。
そのうちに、『じゃあトシ、ここを任すから自分の好きなようにやってみろ』と、ショーウインドウの一部をもらいまして。そこで仕事が終わってから、毎日新しいお菓子をやりました。だんだんエキサイトしてきましてね、仕事終わって飴細工引いて上に乗せたりとかして。そうすると、通りがかりの人が皆さんうわーっと見ていくんですよね。で、他の従業員からは『これ何台作った?』『実は3台しか作ってない』『もっと作れもっと作れ、これは売れる』・・・、ところが、全然売れないんですよね。そこでいろんな勉強させてもらいました。やはり、田舎が悪いと言うのではなくて、伝統菓子に慣れているそういった街では、皆さん『わーきれいだね、わーすごいねー』とは見てくださいますけど、『じゃあ買って帰って食べよう』という気には、ならないお菓子だったんだと思いますね。そんなかたちで、じゃあどうすれば結果が出せるのだろうか、と、ずいぶん悩んで試行錯誤しましたね。そのうちひとつ、すごく売れるお菓子を作ることが出来まして。これは“トシ・マンデルクローネ"と、僕がトシと呼ばれていたので、そういう名前で店に出してもらえたんですよ。それが結構売れるようになりまして。もちろん、その売れ具合だけじゃなくて、そういった過程もシェフはずっと見てくださっていたんだと思うんですけれども、帰国する一週間前に呼ばれまして、『トシ、なんとしても労働ビザを取ってやるから残れ』ということを言って下さいまして。この時はほんと涙が出るくらいうれしかったですね。苦労したなんて全然思わなかったですけれども、この間知らないうちに12キロくらい体重が減ってましたね。まあ、その前がちょっと肥えすぎていたのもあるんですけども(笑)。
そういった経過でスイスで労働ビザを取ってもらって、順調なスタートが切れましたね。あの頃もしあれで帰国していたら、またその後、全然変わっていたと思います」
「スイスで本当にいい人たちに囲まれて、楽しく仕事させてもらって、そうしているうちに1年半が過ぎました。僕はどうしてもフランスには行きたいというのがあったんですが、1年半といいますと、ようやくドイツ語が少し分かりかけてきた頃で、今の状態でフランスに行くのはすごくもったいない、なんか今までやっと慣れてきたことが、無意味になるということではないんですが、もっと有効に使うために『もう一回ドイツ語圏で勝負してみたい』という気がしまして。次にドイツ語圏で一カ所というと、やはりウイーン菓子というのにあこがれていましたので、ウイーンでぜひ働きたいと思いまして、エルマティンガー氏に紹介していただきました。
スイスにはリッチモンド製菓学校という世界的に有名な製菓学校がありまして、エルマティンガー氏を通じて、そこの校長先生のムッシュ・ボエッシュという方が、オーストリアのリッチモンドクラブに話を通してあげるということになり、当時リッチモンドクラブの会長をされていました、アンナミューレという店のシェフパトロンを紹介していただきまして、そちらに移ることになりました。
最近はウイーンでも新しいお菓子をやるところが増えてきているんですけれども、そのお店は、典型的な、伝統的なウイーン菓子をやっているお店で、そこで伝統的なウイーン菓子を1年半学んで参りました。少しウイーンからはずれた田舎町というのもありまして、そちらのほうでも、すごく温かい人たちに囲まれて、オーナー家族の人にクリスマスなんかは家に呼んでもらって、家族のように食事させてもらったりとか、思い出もいっぱいあります。
ドイツ語圏には合計3年いたんですが、よしこれでフランスでやってみたい、パリに出てみたい、ということでいよいよパリに出ました」 |