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「ベルギーにブリュノウという三つ星レストランがありまして、当時そこに僕が一番仲のよかった友人、日本人なんですが、が働いていたんです。フランスでコンクールに出ている間、その結果『だめだったよ』『今回結構よかったよ』というのを手紙に書いて、彼の元にいつも送っていたんです。その彼が、ムッシュ・ブリュノウ、ジャン・ピエール・ブリュノーという本当に偉大なシェフなんですが、彼にその写真を見せていたんですよね。そうしたらそのシェフが、シェフパティシエが抜けたとこともあるんですけれども、『よかったら来ないか』というようなことを言ってくださいまして。パリに2年間いて、ひとつの区切りがついたので、『じゃあ今度はブリュッセルのレストランで、ちょっと勉強させてもらおう』と思い、ベルギーに移りました。
ホテルでも働いていましたので、ある程度のデザートはもちろん経験があったんですけれども、レストランでやるということは経験がなかったものですから、料理人と一緒にいろいろなことを勉強させてもらいました。最初は半年くらいのつもりでいたんですが、入って3ヶ月くらいたったときですかね、シェフのほうから呼ばれまして、「労働ビザをとってシェフパティシエとして正式に契約したいので残らないか」ということを言っていただきました。この時はやはりうれしくて、日本のいろいろな方にも相談して『日本で3つ星のシェフパティシエになった人は一人もいない。これは大きなチャンスだから挑戦するべきだ』ということも言ってもらいましたし、自分でも相談しながらも、実はやってみたいというのがあったので、この時点で『お願いします』ということで、すぐ手続きに入りました。
その後ですね、もういろんなことがめまぐるしく起こりまして。例えば海外からスエーデンやスペインの国王が来られたときの公式晩餐会のデザート担当に選んでいただいたりとか、そういった中の緊張感ですよね、いい経験をさせてもらいましたし、精神的にも強くなったと思います」
「ただし、労働ビザを取るまでにやはり1年かかりました。労働大臣に会わせていただいて、大臣の口から『絶対取ってあげるから安心していいよ』というようなことを言ってもらいましたが、それでもかなりの日数がかかりました。1年間してようやく晴れて正式に契約して、ベルギーでシェフパティシエとしてやっていくことが出来ました。
ベルギーには結局2年半いたんですが、それまでと、このベルギーの2年半というのは全く違いました。例えば、今まで、お店の若い15、16歳の子たちに対して、変な言い方になるかもしれないですけど、「あいつら仕事できないし」なんて、笑っていられたんですけども、たとえ仕事が出来ない子であろうとどんな子であろうと、シェフとなれば実際に使っていかなければいけないんですよね。今まではほっといてよかったのが、実際に使っていかないといけない。言葉も不自由ですが、そこで馬鹿にされたらシェフは終わりですからね、絶対馬鹿にされないように、きちっとして引っ張っていく、という勉強もさせてもらいました。あと向こうでは、それまでは自由な立場でやらせてもらっていたので、責任感があまりなかった。それがシェフパティシエとなったことでしっかりと責任を負わされた、ということも大きな経験になったと思います」
「ジャン・ピエール・ブリュノウというのは本当にすごい方で、例えば、一代で三つ星レストランに上げているんですよね。奥さんと二人で小さなレストランを起こして、一つ星二つ星、そして三つ星まで上げて、もう17年ぐらいになるかと思うんですが、それを維持しているシェフで。もう60歳ぐらいなんですが、寝ないですね。2時間を2回ぐらいに分けて寝るというのを若いときからずっとやってると言うんですが、それでもなおかつエネルギッシュで、パワーがあって、彼女がいっぱいいて・・・まあこれは全然関係ないんですけれども(笑)、それほどエネルギッシュなシェフでした。
そういった中でずっとやってきまして、次に日本でやりたいという気持ちがどんどんふくらんできました。最初から、最終的には日本でやりたい、というのが強くありましたし、7年半向こうにいて、年齢的な面もあり、ヨーロッパである程度自分の満足いく実績を上げられたので、『よし次は日本で勝負しよう』と決断して、昨年帰国してきました」 |
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