「趣味はサーフィンですね。サーフィンは高校の時からずーっと、狂ったようにやってました。お気に入りは八丈島。八丈島までひとりで行って、現地で知り合ったサーファーと一緒にサーフィンをやって、ということもありました。あとは湘南、千葉、茨城、福島、どこでも行きますよ。デフェールが始まってからは全然行ってないですが、そのうち余裕ができたらまた行きたいと思ってます。サーフィンは人生を狂わせるくらい面白いですよ」
「中学校の時は、原宿のホコ天で踊ってました(笑)。ロックンローラーで、頭をリーゼントにして、毎週のように原宿に通って。中学校2年くらいの時かな。その頃は本気で『俺は40、50になっても絶対リーゼントでいる!』って思ってましたね」
「高校入ったら髪の毛を全部おろして、今度はサーファー。海のない埼玉でサーファーですからね(笑)。西武新宿線に乗って、新宿で小田急線に乗り換えて、毎週のように海に通って。3年になったらサーフショップに通い始めて、当時26とか7くらいの、結構年上の先輩に海に連れて行ってもらってました。免許なかったんで、助手席が僕の指定席で、千葉とか茨城とか毎週のように行ってましたね。その先輩というのが、みんな暴走族上がりみたいな先輩達で、すごく面倒見は良かったんですけどもね。助手席に座ってると、『安食〜、歌うたえ〜』とかね(笑)。海行ったら、『裸でサーフボード持って一周してこい』とか。ビーチでですよ(笑)。変なことやらされましたけど、すごい楽しかったですね。でも海に入ると、そういう先輩達もすごい真剣で。すごくレベルの高い人達で、高校の時、埼玉二区というところで全日本の強化メンバーとして本格的にやろうというので、そのメンバーに入れてもらって、ほんと真剣にやってましたよ。専門学校時代もサーフィンはやってたんですけど、実際に就職するということになると、大会なんかには参加できないので、全日本の方はあきらめましたけど」
「スポーツは小さい時からいろいろやってました。幼稚園から小学校6年間は剣道をやりましたけど、剣道はいやでしたね〜(笑)。幼稚園の時親父に連れて行かれて、気づいた時には竹刀を握って、防具を付けていた。その時の剣道の先生というのが警察官で、すっごい厳しかったんです。先生はすごい大きい人で、僕は小さい体で、かかり稽古なんかになると、何回も突き飛ばされて。泣きますよね当然。でも泣けば泣くほど厳しくなりましたね。その時に、“泣けば何とかなる"とか、“泣けば済む"とかいう考えはなくなりましたね。すごい厳しくていやだったんですけど、親父もやめさせてくれないし。剣道で結構忍耐力が付きました」
「その反動で中学校行ったらテニス部ですよ(笑)。でもそのテニスが結構楽しくて、キャプテンまでやって、市では結構いいところまで行ったんですけど。ユニフォームの短パンにには、黒い刺繍で“絶好調"って(笑)。ラケットも、軟式のラケットで“ニューナンバーワン"っていうのがあったんですが、かわいいデザインで、ちょっと自分っぽくなかったんで、メタリックの紫とピンクで塗装してね(笑)、グリップのところも地味だったんで、赤い革のグリップを巻いて。族車のようなラケットで、頭リーゼント。かっこわるいですよね。でもその時はかっこいいと思ってたんですよ。
テニスは最終的に、どうも自分にはちょっと合わないなと。テニスというのはネット越しに、なるべく相手が取れないところに球を打つんですよね、ぶつけるんじゃなくて(笑)。ぶつけ合うんだったらちょっと楽しいのかもしれないけど、相手の取れないところに落として、取れなかったりすると『ラッキー!』とか言ったりして(笑)。なんかこう、自分向きじゃないな、高校行ったら、絶対ラグビーに入って、ぶつかりあいたいなと」
「受験した高校にはラグビー部がなくて、アメリカンフットボールしかなかったんで、じゃあアメフトに入ろうと。中学校の時は全然勉強していなかったんで、高校も入れるかどうかわからなかったんですが、面接の時、面接官の先生に、『君は部活入るの?』『アメリカンフットボールに入ります』と。そうしたらその面接官の先生がニヤっと笑って、(手元で)マル、かなんかつけて。アメフトの監督だったんですね、それで高校入れたみたいです(笑)。高校ではアメリカンフットボールに熱中しました。休みの日はサーフィンやって、学校ではほとんど、1時間目から4時間目から通しで寝ちゃってたような感じですね」 |